大豆文化富谷宮城 「宮城の大豆食文化」保護・継承プロジェクト

有識者検討会

今年度は3回の有識者検討会を実施しました。 本プロジェクトの最終目標である 「宮城の大豆食文化」 の文化財登録に向けて、奥州街道400年の歴史を誇る富谷宿を舞台に、宮城の大豆の歴史文化・生産流通を紐解くため様々な文献を元にした資料提供、フィールドワークを実施したことで、宮城に根付いている大豆食文化の始まりが少しずつ判明し、保護・継承に向けた動きに繋がりました。 開催した有識者検討会において代表的なトピックをご紹介します。

有識者検討会 イメージ

調査研究において発見された“仲間帳”

有識者による大豆の食文化の調査研究を進めていく中で、合資会社亀兵商店 亀田治氏より「仙台城下味噌仲間帳」と「仙台城下醬油仲間帳」 が提供されました。 本事業ではじめてこの文献を解読し、 デジタルデータ化したことで、これまで公表されていた同様の資料の中でも最も古いもので、1800年代初頭の仙台における味噌醤油製造販売についての記録が残されていることがわかりました。 販売者名簿(全体で約80名)、当時の所在地、仕込み配合、毎年の大豆価格等の記載があり、当時の製造・販売の様子を知る大きな手掛かりとなりました。
仲間帳からみる当時の配合として、味噌に関しては現在の配合と比べ麹が少なく塩は同等程度入れられていたのではと推察されます。麹が少ないため熟成期間を長くとり、色とうまみが濃く、甘さの少ない味噌だったのではと考えられます。 一方、醤油に関しては、穀物と塩の記述はあるが水の分量が読み取れなかったため想定となりますが、塩濃度が現在に近いものと仮定すると、当時の醤油のうま味は、現在よりやや控えめであったことが推察されます。 また現在は使用されない米麹が相当量使用されていることから、やや甘めの味わいであったのではないかと考えられます。

仙台城下味噌仲間帳と仙台城下醬油仲間帳 イメージ

仙台城下味噌仲間帳と仙台城下醬油仲間帳

富谷宿における商工業の変遷

今回の調査において、宿場の中心であった富谷新町の商家より寄贈された 「商売仕り候者名簿調帳」を調査することで、当時の商工業の変遷が分かってきました。 起業・出店が最も活発だったのは1800年代文化・文政年間であり、それ以前は味噌・豆腐・濁酒・清酒・麹振売(味噌や濁酒などを自醸するために販売される麹) を生業とする者は少数で、味噌・豆腐製造業の起業は1700年代前半の享保年間でした。 このことから富谷地域では味噌や豆腐は自ら造り食するものであったと推察されます。 また、仙台藩は飢饉の際に、濁酒製造の禁止、 清酒製造量の制限、町ごとに豆腐製造者数の制限など、穀物の加工を制限した記録があります。 このような制限のたびに、煮売り(総菜製造)と濁酒で起業した販売業者は濁酒製造禁止を受け、麹を用いる技術を生かして味噌製造に転業するなど新たな加工・販売業者が誕生しているという記録もあります。

江戸時代半ばに仙台藩で食べられていた大豆料理

仙台藩の5代藩主 伊達吉村に仕えた料理人、橘川房常がまとめた料理集から当時のレシピが分かりました。 豆腐料理が約24種類掲載されており、江戸時代半ばから多くの豆腐料理が食べられていたことが分かります。 また、 仙台から塩竈へ至る街道沿いの茶屋では、湯豆腐が名物で、旅人だけでなく仙台藩主が塩竈神社へ参拝する道中、湯豆腐を食していたと記録に残っています。 この湯豆腐は、水切りした豆腐を蕎麦のように細長く切って、温かい醤油味の汁で食べたものとされています。 江戸では豆腐のレシピ本 「豆腐百珍」 が発行されていることもあり、豆腐は身近な大豆加工食品として食されていたことが分かります。

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yujiyosi, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

江戸時代に発行された豆腐の料理本「豆腐百珍」の1ページ

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